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平台与技术

EPSON PC-286:兼容机争议与产品调整

这篇法政大学的企业史研究从 EPSON 进入日本个人电脑市场写起,接着记录 PC-286 的上市、NEC 对 BIOS 和 ROM BASIC 的主张,以及产品改版和后来的和解。

机构资料
CHAPTER / 00 / 04 0%

这份资料在讲什么

这篇法政大学的企业史研究从 EPSON 进入日本个人电脑市场写起,接着记录 PC-286 的上市、NEC 对 BIOS 和 ROM BASIC 的主张,以及产品改版和后来的和解。

1987 年,NEC 针对 PC-286 Model 1 至 4 申请停止制造和销售的临时处分。EPSON 随后改用另一套 BIOS,取消 ROM BASIC,并推出 Model 0;文章把这些产品变化和诉讼过程放在同一条时间线上。

后文继续写 EPSON 如何调整产品线、扩大个人电脑业务,以及这场争议怎样伴随兼容机市场的发展走向收束。

CHAPTER 01 / 04

EPSON 进入日本个人电脑市场

文章先写 EPSON 的企业背景和日本个人电脑市场,再写 PC-286 如何作为 PC-9801 兼容机进入这个市场。

原文

WORKING PAPER SERIES

木村 登志男

セイコーエプソン・国内市場エプソン

ブランド完成品躍進の端緒

<ビジネスケース 資料 No.3>

2010/02/16

No. 82

The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY

WORKING PAPER SERIES

Toshio Kimura

Professor, Hosei Business School of Innovation Management

SEIKO EPSON Corp., The Start of the

EPSON Branded Finished Products

in the Japanese Market

CHAPTER 02 / 04

NEC 对 PC-286 提出临时处分申请

1987 年,NEC 针对 PC-286 Model 1 至 4 申请停止制造和销售,争议集中在 BIOS、ROM BASIC 和固件是否过于相似。

原文

<The Case of a Business, No.3>

February 16, 2010

No. 82

The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY

1

<ビジネスケース 資料 No.3>

セイコーエプソン・国内市場エプソンブランド完成品躍進の端緒

木村登志男

主旨

ミニプリンタとパソコン用ドットインパクトプリンタの成功で急成長したセイコーエプ

ソンの情報機器事業の主戦場は米国・欧州だった。そのためエプソンブランド完成品の国

内販売強化は緊急の課題だった。1985 年9月のプラザ合意とそれを契機とする予想をはる

かに超える急激な円高は内需拡大の絶好の追風となった。その追風を活かして国内市場急

拡大の尖兵となったパーソナルワープロと NEC98 互換パソコンの足跡と意義を追う。

第1章 内需拡大に舵を切れ!

CHAPTER 03 / 04

Model 0 重新走向市场

EPSON 更换 BIOS、取消 ROM BASIC,随后推出 Model 0。文章还写到这次改版怎样让产品重新回到 PC-98 兼容机市场。

原文

1985 年9月 22 日のプラザ合意は急激な円高を引き起こした。9月時点で1ドル 240 円

前後だった為替があっと言う間に 200 円を割ってしまった。前述のとおりセイコーエプソ

ンは非常事態宣言を発し、緊急チャレンジアクションを急展開した。その柱は「内需拡大」

と工場の海外移転および新製品開発による「輸出競争力の強化」である。

内需拡大策にもとづく国内向け商品開発の強化と国内販売体制の強化は セイコーエプソ

ンの国内販売会社であるエプソン販売にとって強力な追風となった 。欧米市場ではMX-

80を市場に投入して以来、ドットインパクトプリンタが急速に伸び、EPSONのブラ

ンド認知度が高まっていた。とくにアメリカでは1981年時点でパソコンはアップル、

プリンタはエプソンと称されていた。その後IBM PCがデファクトになるとIBMが

エプソンプリンタをOEM調達したこともあって、エプソンのブランド知名度はさらに高

まった。それに対して、日本市場では市場特性の違いからパソコンおよびプリンタの普及

が遅れ、エプソンのブランド知名度は低かった。1985年時点の朝日新聞の調査ではE

PSONのブランド認知度は50%未満でしかなかった。当然内需拡大の追風に乗ってE

PSONブランドを高めようという動きが激しくなる。日本市場もEPSONブランド完

成品の主力はプリンタであったが、欧米市場での存在感に較べると、今ひとつパンチが効

CHAPTER 04 / 04

和解与后续的产品扩张

后文把和解、产品调整以及 EPSON 后来扩展个人电脑业务的过程接在一起,写出这场争议之后兼容机市场的走向。

原文

いていなかった。そこで内需拡大・ブランド知名度向上の尖兵となったのが、パーソナル

ワープロである。 小さな一歩ではあったが三段跳びにたとえればパーソナルワープロが 「ホ

ップ」である。 「ステップ」は1987年に発売されたNEC98互換パソコンで、大「ジ

ャンプ」となったのが1994年に発売されたカラーインクジェットプリンタである。

1985年末から1990年にかけてエプソン販売はパーソナルワープロを内需拡大・

2

EPSONブランド知名度向上への足がかりとし、著作権紛争で世間の耳目を集め、その

後日本のパソコン市場に旋風を巻き起こしたNEC98互換パソコンを軸に大きく飛躍し

た。もちろん主柱事業のプリンタはインパクトドットプリンタの商品力の大幅な向上とラ

インアップ拡充は言うまでもなく、サーマルプリンタ、本格的日本語対応ページプリンタ

等製品ラインを充実させて内需拡大をはかり、主柱事業としての責任を果たしたし、ハ ン

ドヘルドコンピュータ・ハンディターミナル、オフィスコンピュータ、液晶テレビやまめ

から等の民生品も中堅事業として精一杯気を吐いた。OEM営業も取引先の海外シフトに

対応して営業体制を柔軟に変えて売上拡大をはかった。

セイコーエプソン・エプソン販売が一丸となって内需拡大に努力した結果、1986年

度から1989年度にかけてエプソン販売は下表のとおり売上高を急成長させ、4年連続

で黒字経営を達成した。1989年度は下期ノートパソコン台頭による市場構造変化・低

価格化の影響を受けて、利益が大幅に減尐したが、トータルで黒字は確保した。

年度 売上高(うち完成品売上高・比率)

1986年度 471億円(完成品225億円・47.8%)

1987年度 682億円(完成品360億円・52.8%)

1988年度 1037億円(完成品635億円・61.2%)

1989年度 1177億円(完成品733億円・62.3%)

本章では、内需拡大の尖兵となったパーソナルワープロとエプソン販売大躍進の原動力

となったNEC98互換パソコンに焦点を合わせ、エプソン販売急成長の軌跡を追ってみ

たい。

第2章 内需拡大の尖兵パーソナルワープロ:エプソンワードバンクシリーズ

1.エプソンワードバンク誕生秘話

エプソンはEXWORD-20/10などのワープロ専用機ないしHC-88のように

ワープロ機能を標準搭載したパソコンを販売してきたが、EXWORDは会計事務専用オ

フコンのチャネルで販売されたにとどまり、HC-88は 『セイコーエプソン・国内販売

会社創立』 (ビジネスケース資料No.2) で述べたとおり残念ながら市場に広く受け入れらな

かった。

エプソン(株)機器設計部主任下里秀人(現ソフト開発センター部長 )はEXWORD

のワープロソフトを開発したが、もっと売るためにはHC-40に載せられるような軽い

ワープロができないものかと考えた。当時のエプソンには自由奔放な空気が満ち溢れてい

た。正規の研究テーマ以外にも夜間居残りで自分の好きな研究テーマに取り組む技術者が

数多くいた。下里が闇研究(スカンクワーク)で同僚とカナ漢字変換ソフトを開発したこ

3

ろ、パーソナルワープロと称するオフィス機器がキヤノンやシャープなどから発売され始

めていた。 「カナ漢字変換ソフト」をベースにパーソナルワープロをつくったらどうだろう

かと思い立って、課長や部長に話してみると、 「いけるかもしれないな」と話に乗ってきて

くれた。下里はさらに詳細に企画を煮詰め、秋葉原の店頭を訪ねては今販売されている他

社のパーソナルワープロの問題点や望ましい機能などについて聞き込み調査を行なった。

その結果、 「市場では5万円を切るような低価格パーソナルワープロが発売されて話題にな

っているが、そのレベルのワープロでは実戦の役には立たない。フロッピーディスクを内

蔵した本格的な高級パーソナルワープロを目指すべきである。その場合のプライススポッ

トは10万円、これを切るか切らないかが個人 レベルに浸透するかどうかの重要な分岐点

になる、ただし、10万円に固執して機能を犠牲にしては元も子もなくなる、その場合は

機能を充実させるべきだ。 ワープロの4つの基本機能、 すなわち 『文字入力』 、 『印刷』 、 『編

集』 、 『記憶』のうち、現在のパーソナルワープロは『記憶』をつかさどる保存機能がない

がしろにされている、FDDを搭載すべきだ」という感触をつかんだ。また、価格につい

ても「販売店は安いものを数多く売るよりも、それなりの価格で利益の上がる商品の方を

好む」ということもわかった。1985年4月新生電子機器事業部がスタ ートするとまも

なくパーソナルワープロはハンディーターミナルと並んで有力 新製品に取り上げられた。

機器設計部に機器設計二課が組織され、下里は そのソフトウェアグループのリーダー (主

任)となってパーソナルワープロの開発に取り組んだ。基本コンセプトは「快適な操作性

と実用性」 に置いた。 外部記憶装置 (フロッピーディスクまたはICカード) を内蔵させ、

質の高い辞書機能を収録して、30文字までのひらがな入力をワンタッチで漢字交じり文

に一括変換することを目標にした。ディスプレイは15桁×4行の大型液晶入力画面(当

時)を用い、美しいオリジナル高品位24×24ドット印字の文書を毎秒30字のスピー

ドでプリントアウトするという構想である。年末商戦には是非間に合わせたいというスケ

ジュールでスタートした。根幹となるソフトウェアはすでに開発してあるとはいうものの、

厳しい開発日程だった。しかし、新生電子機器事業本部の当面の最重要テーマである。事

業本部の命運がかかっているから関係者全員が必死だった。

9月22日にプラザ合意があり、10月にはスワセイコーエプソングループ非常事態宣

言が発せられて緊急チャレンジアクションが始まった。パーソナルワープロ は当面の内需

拡大の目玉商品になった。電子機器事業本部とエプソン販売が一体となって発売の準備が

進められた。セイコーエプソンのトップマネジメントは緊急チャレンジアクション・内需

拡大の支援策としてセイコーエプソンから100名余の販売支援者をエプソン販売に派遣

することを決定した。販売支援は企業を回るローラー支援と販売店の店頭に立つ店頭販売

支援に分けられた。店頭販売支援者のうち30余名はパーソナルワープロの特訓を受けた

女性社員だった。販売支援者は本社および全事業部門から集められた。12月1日、待望

の「エプソンワードバンク」 (フロッピーディスク内蔵モデル;¥138,000)が出荷即発売

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された。それから3週間遅れの12月21日にICカード内蔵の廉価モデル「エプソンワ

ードバンク―S」 (¥99,800)が発売される。

セイコーエプソンサイドでも社内各事業所への巡回販売促進や事業部の取引先への商品

紹介などエプソン販売をバックアップする活動が活発に行なわれた。

2.エプソンワードバンク進撃開始!

エプソン販売はテレビスポット広告を含む広告宣伝を大々的に行い、秋葉原駅構内をそ

っくり借り受けたプロモーション(アド・パック・キャンペ ーン)も行なった。秋葉原の

駅全体がエプソンのショールームのようになった。営業マンは販売支援のセイコーエプソ

ン社員と一体になって販売活動に熱を入れた。とくに秋葉原の中央営業所は入社5年目の

斉藤秀明主任(後退職)がヘッドで、以下入社後数年の若手社員で固められていた。若手

の精鋭たちは初めてのコンシューマ商品ということもあって土日返上で頑張った。中には

秋葉原の担当店を回っているうちに終電に間に合わなくなり、カプセルホテルに泊まった

らそれが日常化してしまったという強兵(つわもの)もいた。

かくしてエプソンワードバンクは予想以上の健闘を見せた。先行する東芝の「ルポ」や

シャープの「書院」 、富士通の「オアシス」に次ぐ、第4位グループの売行きだった。フロ

ッピーディスクを内蔵するモデルがまだ東芝のルポとエプソンワードバンクしかなかった

というタイミングのよさと優れた辞書機能による文章一括変換が評価された。デザインも

某週刊誌の漫画のなかに「絵」で登場したくらいコンパクトでユニークなものだった。

店頭販売支援者の奮闘振りはエプソン販売の住田専務が社内報「エソール」の役員新年

挨拶で紹介しているので、引用しておこう。

『あけましておめでとうございます。ごあいさつがわりに、昨年暮近く、秋葉原の其シ

ョップで、セイコーエプソンから、ハンディワープロ拡販の店頭応援に来てくれていたあ

る女性の話をひとつ ―

○○店のワープロフロアーに現われて、キョロキョロしている私を(私が販社の者だと

名のる前に)彼女は、お客様のひとりとして、ごく自然に当社の「ワードバンク」の前に

案内し、ひとしきりそのセールスポイント、主要機能、印字の鮮明さなどを説明してくれ

ました。

お客様と思われていることに乗っかって、私が意地悪く「東芝のルポはワードバンクに

はないこれこれの機能があって、価格も安いのでは?、カシオが新規投入したワープロに

比べると…」などとたずねると、彼女は尐しもたじろがず、 「他社の製品にもワードバンク

にもそれぞれ特徴があります。お客様の使い方に従って選んでいただくのが一番良いと思

います。ワードバンクについて申し上げれば、文章一括変換やかなりの数の固有名詞を含

む 12 万語の辞書や、前回使用した漢字が次回は最初に出てくるという学習機能などは、実

際にお使いになってみて初めてその良さがお判りいただける、そういうものでございます」

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と、落ち着いて、しかし熱っぽく話して くれました。その口調には「ワードバンク」とい

う当社製品に対する誇りと愛情に支えられた静かな自信が感じられました。

私が「申しおくれたが販社の者です」と名のると、彼女は「あら、そうでしたの」と、

やや意外な顔をした後、すぐお客様に応対するときの緊張の糸がきれたようにくだけて話

しかけてくれました。 「諏訪から出てきて、突然こうしてお客様の中に立っていると、時々

不安になることがあります。でもお客様の反応をみながら対応することはやりがいがある

し、お店の方達も親切で問題はありません。私はまだ 4 台しか売っていないので、この点

でこれでよいのかしらと思っていますが、でも、ここでは私がいなければ「ワードバンク」

は売れません。誇りにできる良い商品ですが、何十種類も同種の競合品が並んでいる中で

は、お客様をご案内し、説明し、触れていただかなければ理解していただけないので、私

がいないと ― 」 そう話す彼女が何か輝いて見えたような気がしました。 つづけて 「お

客様は大抵三度位見に来られてから買うことを決意されるようです。 」

「今日お話したお客様が 1 週間後にもう一度来られて、やっぱりこれがよいかな、と思っ

ていただく、その次にはそうだこれだと決意 していただく、そういう風に考えながら一回

一回ていねいに説明しています。 」

私が「朝から夕方まで立ちっばなしで疲れませんか」と聞くと「最初の頃は、ホテルに

帰って、夕食が済むと、お行儀の悪い話ですが、重ねたフトンの上に足を高くのせて疲れ

を直しました。でも、もう慣れてきました」と茶目ッ気のある笑顔で答えてくれました。

私は思わず「ご苦労さん、がんばってね!」と、隣のお客様ににらみつけられる位大きな

声を出してしまいました。

店を出て、 木枯らしの中を駅に向いながら、 何故か、 仲間の息づかいを感じとりながら、

ロープで体を結えあって、一歩一歩冬山を登る登山隊の列が心に浮かんできました。

今年もみんなで力をあわせてがんばりましょう』

この年の販売支援・店頭派遣支援は大きな成果をあげた。とくに店頭派遣者は大きな自

信をつけたし、何よりもエプソン販売が活性化した。前線の営業マンに元気が出てきた。

半年前の「消すな国内販売の火!」という悲痛な叫びは消え去っていた。その成果が評価

され、年末・年始と夏のボーナス商戦期の店頭販売支援はセイコーエプソン恒例の販促策

として定着していく。

パーソナルワープロの勢いは年を越しても続いた。その 一例を挙げると、エプソン販売

中央営業所(秋葉原)は3ヶ月連続(85年12月、86年1月・2月)で売上2億円突

破の快挙を成し遂げた。もちろんこれはエプソンワードバンクだけではなく、24ピンプ

リンタVPシリーズの好調もある。中央営業所の売上が2億円を初めて突破したのは前年

84年12月で、85年12月は2度目であるが、その勢いをかって1月も達成したばか

りか、通常ニッパチといって売上が落ちる2月にも2億円越えを達成したことは、中央営

業所の若手営業マンに大きな自信を与えた。

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自信を持ったのは事業部サイドも同じだった 。次の新製品開発に力が入る。3月末には

エプソンワードバンクをバージョンアップした 「エプソンワードバンク―J」 を発売する。

このモデルはパーソナルワープロ初のJIS第2水準漢字を搭載し、文書ワークをさらに

充実させ、さらに英文ワープロの機能を追加したものである。エプソン販売もそれに応え

て、4月3日から9日まで秋葉原駅構内で「エプソンワープロフェア」と銘打って、新入

社・新入学セールの時期に合わせてワープロと液晶テレビのアド・パック・キャンペーン

を展開した。秋葉原駅構内が垂れ幕とポスターと展示品のワープロ・テレビで埋 め尽くさ

れてエプソンのショールームと化すビッグイベント、前年末に続いて2度目の試みである。

営業担当、宣伝広報担当、エプソンレディ、そしてアルバイトの人たちが一体となってキ

ャンペーンを盛り上げた。事業部と販売会社との息も合ってきた。

5月には第2水準の漢字を700字に限定した¥99,800の廉価モデル「エプソン

ワードバンクーJ2」を発売し、低価格化傾向に対応した。

6月に入ると40字×5行の大型液晶ディスプレイを搭載し、200文字文章一括変換

でき、かつ手書きで簡単入力できる図形処理機能つきの新製品「エプソ ンワードバンク―

F」が発売される。価格は¥128,000だった。商品競争力は一段と強化された。夏

の商戦もセイコーエプソンから店頭販売支援を受けて、6月・7月の商戦はさらに活気を

帯びていった。エプソンワードバンク―Fは売れ筋パーソナルワープロの第3位以内にラ

ンクされる大ヒット商品となり、エプソンワードバンクの売上・シェアは順調に伸びてい

った。

事業が順回転しだすとどんどん勢いが増す。

年末商戦には11月に住所録を内蔵させ、画像読み取り機能をつけてバージョンアップ

しながら価格を¥99,800に引き下げた「エプ ソンワードバンク―FX」と12月に

ディスプレイを40桁×10行に拡大した「エプソンワードバンク―L」を¥128,0

00で投入した。高級機2機種の強力ラインアップである。こういうラインアップを組む

と日本市場では低価格の “FX” が引き立て役となって高価格の “L” がより多く売れる。

11月1日に発売になった「エプソンワードバンク―FX」は「ビジュアルワープロ」

といわれた。グラフィックタブレットを使っての図形処理機能とイメージリーダーを装着

すれば、絵や写真をそのまま取り込むことができた。また、住所録が標準装備され 、葉書

への印刷が手軽になった。絵入りの年賀状作成にはうってつけのワープロである。

12月に発売になった「エプソンワードバンク―L」は40字×10行の大型液晶ディ

スプレイを搭載した最上位機種で「ワイドな画面に、絵が読み込める」ワープロだった。

葉書からB4横まで印字可能になった。この「エプソンワードバンクーL」は夏の「エプ

ソンワードバンク-F」をさらに上回る大ヒット商品となる。

1986年末のエプソン販売の商戦はワープロを軸に展開された。自信をつけた店頭販

売支援者も営業マンももう堂々たるものだった。競合他社に 物怖じなどしなかった。エプ

7

ソンワードバンクは売れに売れた。品不足で機会損失が生じたほどである。その勢いは年

を越しても衰えなかった。店頭販売でのシェアは10%近くに達し、ベストセラーモデル

になった。後日、 「エプソンワードバンクーL」は中部地区所在企業の画期的なヒット商品

として中日新聞社賞を受賞する。

1987年に入ると2月にエプソンワードバンクーLをバージョンアップし、表計算や

グラフ作成機能を内蔵した「エプソンワードバンクーLX」と32ビット内部演算処理で

きるCPU・CRTディスプレイを搭載した「エプソンワードバンク―G」が発売された。

「エプソンワードバンク-G」は当時人気のアップルマッキントッシュのようなグラフィ

カルユーザーインターフェイスを備えた意欲作だった。価格は¥198,000と高価だ

ったが、マッキントッシュの3分の1程度の価格なので、マックライクを期待するマニア

には大受けしたモデルだった。

かくして1986年度のエプソン販売でのエプソンワードバンク販売台数は8万400

0台、56億円に達した。この売上金額はEPSONブランド完成品本体売上182億円

の約30%を占め、主柱事業のTP(完成品プリンタ)売上66億円に次ぐものだった。

1986年度のエプソン販売の売上高は471億円、うちEPSONブランド完成品は

本体以外の周辺機器・オプションなどを含め226億円と前年度 (165億円) 比137%

の伸びで、ようやく全体の48%になった。24ピン漢字プリンタVPシリーズとエプソ

ンワードバンクがその牽引車だった。 経常利益はわずか0.4 億円だったが前年度の赤字から

黒字に転換した。

3.過信・失速

セイコーエプソンサイドから見ると、1987年度は一気に完成品事業の飛躍が期待さ

れる年だった。それは後述するNEC98互換 パソコンの市場投入が予定されており、パ

ーソナルワープロとの2本立てでEPSONブランドの確立が目論まれていたからである。

一方、エプソン販売サイドでも、新年早々本社を新装なった初台光山ビルに移し、激動

の年への決意を新たにしていた。岡本社長は新年挨拶で「積極果敢に、自信を持って、強

気にネアカで頑張ろう」と呼びかけた。セイコーエプソングループの最重要・緊急課題の

1つが国内市場の抜本的な強化、すなわち、エプソン販売の売上を大きく伸ばし、シェア

を確実なものとし、収益を確保することがセイコーエプソングループ全体にと って極めて

重要であることをエプソン販売全社員に強く訴えた。

1987年度開始早々、満を持して発表したNEC98互換パソコンPC-286は後

述するように、発表するとまもなくNECから著作権侵害訴訟を受け、出鼻をくじかれて

しまった。そうした中で、パーソナルワープロの攻勢は続く。4月に入ると24ピンドッ

トインパクトプリンタを搭載した「エプソンワードバンク―GT」を¥248,000で

発売し、6月には前年末から今春まで大ヒットしたエプソンワードバンク―Lおよびその

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バージョンアップ版のLXの後継機「エプソンワードバ ンク―LXT」を投入した。しか

し、 「好事魔多し」の例えではないが、4月・5月まで順調に推移してきたパーソナルワー

プロ事業が夏商戦の6月に入ると突如変調をきたす。一つはセイコーエプソン電子機器事

業本部の部品不足である。4月・5月と部品の調達納期遅れと品質トラブル等でエプソン

ワードバンク―G/GTの出荷が滞った。せっかく競争力のある新製品を発表しても物が

こないのでは商売にならない。夏の商戦ではG/GTの場合、かなりの期間品切れとなっ

たため、販売店の店員教育も含め、新規巻き直しの販売展開を余儀なくされた。もうひと

つの誤算はワープロ市場の過当競争を甘く見たことである。当時、パーソナルワープロ業

界では「6-3-3制」という言葉がささやかれていた。その心は6ヶ月で開発し、3ヶ

月間売り、3ヶ月で在庫処分するというのである。現実に新規性の高いモデルを6ヶ月で

開発できるわけはない。いきおい無理を重ねるし、一つヒット商品がでれば次はその「チ

ョイ変」でお茶を濁さざるを得ない。価格競争も熾烈で、ベストセラーの東芝のルポとい

えども大きく値を崩しているような状態だった。

そんな状況の中に新製品エプソンワードバンク―LXTを投入した。前年 末の品不足に

懲りて絶対に品切れを起こさないよう「玉」もしっかり用意したし、コマーシャルキャラ

クターに宮崎萬純を起用した。当時人気上昇中の美人タレントだった。東芝の早見優、N

ECの三田寛子、松下の斉藤由貴に十分対抗できる人選だった。店頭販売支援も準備万端

整えた。

それにもかかわらず6月、夏の商戦がスタートしても思うように売上が伸びない。6月

は結局LX/LXTが6300台、4億7000万円、G/GTが1100台、1億50

00万円合計7500台、6億2000万円にとどまった。前年同月比130%といえば

一見よさそうに聞こえるが、計画比では達成率50%の惨敗である。結果論であるが、自

信過剰・過信が招いた誤算である。営業の前線と店頭販売支援者の頑張りにもかかわらず

7月もまったく売上が伸びなかった。LX/LXTが5300台、3億9000万円、G

/GTが900台、1億円合計6400台、4億9000万円だった。この惨敗の原因を

当時のセイコーエプソン電子機器事業本部長木村登志男が次のように総括している。

『 主力のワードバンクが目標を大幅に下回った原因を探ると、次のような反省が浮か

び上がってきます。

①他社の攻勢に関する読みを誤った

5 月頃まではエプソン・東芝・日電3 社の争いであったが、 その後主力の大型液晶タイ

プにシャープ・キヤノン・富士通・三洋が競争力のある新製品を投入してきたため、

相対的に商品競争力が低下した。特にシャープ・キヤノンの攻勢は予想以上に強かっ

た.

②価格対応が甘かった

東芝の RUPO-70F は実売価格¥79,800 に対し、 ワードバンクはつい最近まで¥99,800

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に近い水準を維持していた。現在は¥89,800 対応であるか、数を捌くには早い時点か

らの価格対応が必要であった.

③G・GT は「玉切れをおこした」のが尾を引いた。 』

残された大量の在庫の処分は大問題であった。後知恵で言えば、 「戦力の逐次投入は敗戦

を招く」 、在庫ができてしまったのなら即刻思い切った価格政策をとって一気に処分しなけ

ればならない。たとえば、その時点で、半値七掛けというような思い切った価格にすれば

直ぐに捌けたであろう。しかし、赤字の電子機器事業本部と収支トントンのエプソン販売

ではその決断ができなかった。市場の様子を見ながら、 「このぐらいの値段で何とか売れな

いだろうか」という小出しの価格政策で対応した。小出しにしても結局は半値七掛 けで一

気に処分するのと同じぐらいの損失になるのだ。違いは一気に処理するか、時間をかけて

処理するか、だけの話である。そのような状況の中で販推担当者は在庫処分のためにまる

まる1年間、塗炭の苦しみを味わうことになった。

大量の在庫を抱えて、8月・9月の商閑期はやむを得ないとして、10月もLXT,G

/GTの販売促進をかけるが、思うように売上は伸びない。10月にはマガジンサイズの

ワードバンクノートを発売し、 3系列の商品ラインアップとして、 本格年末商戦に臨んだ。

ワードバンクノートはパーソナルワープロとしては例外的な プリンタなしのワープロだっ

たが、豊富なエプソンのプリンタ、どれにでも接続できるようにした。外部記憶装置はI

Cカードであった。まだノートパソコンが影も形もなかった時代だから重量1.2Kgと

いう軽さと通信機能が評価されてマニアの間では大変評判が高かった。今振り返ってみて

も、時代を先取りした優れた商品だった。後日、完全携帯パーソナルワープロとして実業

之日本社から表彰されている。

パーソナルワープロ全体の売上は10月6000台、3億2000万円、11月640

0台、3億3000万円、12月1万2000台、7億円とい う実績だった。12月の実

績は後述するNEC98互換パソコンが市場で大きな反響を呼び、それに引っ張られる形

でワープロも売れたという結果だった。おかげでLXTの在庫も残り尐なくなってきた。

しかし、ワープロ業界の過当競争体質はいっこうに変わる気配がない。NEC98互換

機が立ち上がってきた今、二兎を追ってワープロでも遮二無二突き進むだけの体力は電子

機器事業本部にもエプソン販売にもない。1988年年頭に当たって、電子機器事業本部

長木村登志男は次のような方針を打ち出した。

『 収益重視で「独立事業」商品群 ― PWP,HHC/HT ―を育成する。

* パ-ソナルワープロ事業を重点商品主義で収支均衡させる。

ワープロは電子機器事業本部のみならずセイコーエプソン全体としても内需拡大の尖兵

として、国内でのブランド知名度向上に大いに貢献してきました。その貢献度・役割は決

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して過小評価されてはなりません。しかし、あまりの過当競争の中、強気で攻めまくるに

は体力(資金・人材)が不足しています。自分の体力に合わせて、ランチェスターの法則

にいうところの「弱者の戦略」で生き残ることを考えなければなりません。シャープや東

芝のような強者に合わせていたのでは生き残れません。シャープや東芝と「差別化」する

ことが肝心です。 今までのように商戦期に合わせて6-3-3-制でしゃにむに商品化するの

ではなく、系列を広げるために自社の販売ルートでは大量に販売しにくいような商品まで

開発するのではなく、今後は「的を絞って」 、確実に「差別化して」ワープロ事業を再構築

したいと思います。 』

1987年12月に32ビットCPU,48ドットプリンタ・12インチCRTディス

プレイ搭載のエプソンワードバンク―XR(¥218,000)を発売したあと、198

8年に入ってからは5 月に白液晶ディスプレイを搭載したエプソンワードバンク―XL

(¥198, 000) 、 11月にラップトップ型のエプソンワードバンク―LQ (¥158,

000)を発売するが、高級パーソナルワープロ分野といえども市場は低価格志向に動い

ており、高価格品でビジネスすることは難しかった。どうあがいてみても、もはや一度失

った勢いを取り戻すことは出来なかった。強者がしのぎを削る激烈な競争社会で、 「重点商

品主義で収支均衡させる」ことは所詮、 「絵に描いた餅」に過ぎなかった。パーソナルワー

プロはビジネス的には86年度の販売数量8万40 00台、売上高56億円がピークで、

87年度は前年度比77%、43億円の売上、販売数量は6万台にとどまった。88年度

は再建に向けた関係者の懸命な努力にもかかわらず、6月の販売数量4300台、売上3

億3000万円が最高で7月でさえ販売数量2800台、売上1億9000万円だった。

「重点主義による収支均衡」と謳ってみてもこれでは採算の維持はできない。もし、NE

C98互換パソコンの躍進がなければパーソナルワープロに対する取り組み方も違ったも

のになったかもしれないが、やがてワープロがパソコンに吸収されることになるとすれば、

撤退もやむをえない選択肢だった。内需拡大の尖兵としての役割を果たしてパーソナルワ

ープロは3年間活躍した舞台から去った。

第3章 旋風を巻き起こしたNEC98互換パソコン;PC-286シリーズ

1.NEC98互換パソコン開発の背景

パーソナルワープロが幸先の良いスタートを切り、内需拡大の先鞭をつけたころ、より

一層の内需拡大を図るためセイコーエプソン電子機器事業本部では、その第2の柱を模索

し始めていた。それは国内向けパソコン市場への再参入だった。パーソナルワープロ発売

に数ヶ月先立って米国市場向けにIBM互換PCを商品化していたが、予想以上に順調な

出だしだった。QC-10とはまったく違う市場の反響で初めからQC-10の10倍以

上の売行きを示した。アメリカではプリンタと並ぶビジネスの柱になりそうな勢いだった。

11

互換機はアプリケーションソフトへの投資がまったく要らない。互換BIOS(基本入出

力ソフトウェア)とハードウェア開発の投資だけで済む。だからアメリカ市場では既に何

10社というIBM PC互換機メーカーが参入し、覇を競い合っていた。そのため、I

BM PCおよびその互換機用のアプリケ ーションソフトの開発が活発になり、2万本と

も3万本とも言われるソフトが販売されていた。 「市場を活性化させるためには日本市場に

も互換機が必要だ」と考えていた業界関係者も多かった。

日本のパソコンで互換機を作れそうなものはないかと考えたとき、ジャストシステムの

ワープロソフト「一太郎」を得たNECのPC-9801がデファクトスタンダードの地

位を確立しつつあった。ただし、IBM PCがオープンアーキテクチャー(ハードの回

路図もBIOSも公開)なのに対して、NECの98はクローズドアーキテクチャー(B

IOSは未公開、ハードも完全にクローズ)で入出力の仕様が公開されていないので互換

機はできないだろうといわれていた。しかしBIOSは公開されていなくてもインプット

とアウトプットの仕様はわかる。入口と出口が解れば、迷路パズルではないが、入口から

入って出口に向かって出られる道を模索していけばよい理屈である。そういうプログラム

をNECの真似をせずに自分で独自に作り上げれば良いわけだから、NEC98互換機B

IOSの開発は不可能ではない。むしろ難しかったのはハードウェア上のアーキテクチャ

ー(構造設計)の解析だった。電子機器事業本部副本 部長内藤興人はそう進言するスタッ

フの意見を取り上げて、広丘事業所から隔離された札幌のソフトラボに、広丘のスタッフ

が作った仕様に基づくNEC98互換BIOSとBASICのプログラム開発を指示した。

これがNEC98互換パソコン開発のスタートである。1986年はじめのことだった。

内藤興人はNEC98が汎用部品で回路設計されているため、形状も大きく、コストが

高いことに着目し、専用LSI(ゲートアレイ)をおこせば、大幅に合理化設計でき、よ

りコンパクトで安い互換機ができること、かつCPUもインテルの8086(NEC はそ

の互換CPU V30)ベースではなく、より高性能の80286を使ってNECの上を

行く互換機(アッパーコンパチブル)が出来ることを確信していた。なおかつ、アメリカ

では既にポピュラーになっていた外部記憶装置・HDDを2基まで内蔵できるようにして

拡張性をもたせることも考えた。NECはPC-9801はV30でしかできないと煙幕

を張っていたが、内藤とそのスタッフはNECのカモフラージュであることを見抜いてい

た。内藤はオーソドックスな80286高性能モデルと画期的なコンパクト設計・低価格

のモデル、3.5インチのフロ ッピーディスクを搭載した薄型廉価版モデル、そしてラッ

プトップパソコンの4機種の設計を平行して進めさせた。

一方、もう一つの課題は営業だった。パソコンの市場開拓は一筋縄では行かない。パー

ソナルワープロとは訳が違う。NECに真っ向勝負を挑まなければならない。ここは豪腕

の営業リーダーがぜひとも必要である。電子機器事業管掌役員の相澤専務とエプソン販売

岡本社長が協議してセイコーエプソン広丘で電子機器営業を担当していた斉藤博美部長を

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エプソン販売に出向させることにした。斉藤は電子機器国内営業の草分けでオフィスコン

ピュータの代理店網を構築した功労者である。その豪腕はつとに知られていた。斉藤はエ

プソン販売に出向すると、早速NEC98互換パソコン専任のスタッフグループを組織し、

来るべきパソコン市場導入の営業戦略研究と発売準備を精力的に進めた。

2.NEC98互換機発表と著作権紛争

年が改まって1987年、セイコーエプソンは大胆にも元旦の日本経済新聞にNEC9

8互換パソコン発売を暗示する1ページ全面のカラー企業広告を掲載した。エプソンがN

EC98互換機を発売するのではないかという噂が業界筋でささやかれるようになった。

NEC98互換機の発売を噂されたのはエプソンだけではない。エプソン以外にも数社あ

った。エプソンの関心事はそういう仮想競合メーカーに先駆けて互換機一番乗りを果たす

ことだった。エプソンは4月発売を目論んだ。2月が過ぎ3月に入るとどこかに先を越さ

れるのではないかと気をもむ毎日が続いた。3月初め、いよいよ発表・発売が秒読みに入

った段階で、相澤専務・岡本社長および関係者の間で「いかにも日本的ではあるが、互換

機を発売する以上、NECに挨拶しておいたほうがよいだろう」という話になった。広報

室長が窓口になり、NECの関本社長に面 会を求め、服部社長・相澤専務・筆内取締役広

報室長がNEC本社に出向いた。NEC関本社長は面会に応じず、代わりに水野常務が応

対した。席上、水野常務は「著作権の関係で気になる点があるので、発売前に物を見せて

もらえないか」と切り出した。相澤専務は「是非調べてみてください」と応じた。

トップ会談の合意にもとづき、エプソンのNEC98互換機“PC-286”がNEC

府中工場に持ち込まれ、調べてもらうことになった。それからおよそ1週間後、NECか

ら調査結果が出たのでお知らせしたいという連絡があり、NEC指定のホテルの レストラ

ンに相澤専務が出向き水野常務と面談した。3月8日夕刻のことである。岡本社長以下木

村丈夫常務・斉藤副本部長、木村登志男電子機器事業本部長・内藤副本部長、そして川口

広報課長などの面々は1月に移転した初台のエプソン販売本社会議室に待機し、相澤・水

野会談の結果をじりじりしながら待っていた。技術面を統括する内藤副本部長は「絶対に

著作権侵害はない」と自信を持っていた。やがて相澤専務がエプソン販売本社会議室に戻

ってきた。開口一番「水野常務から、著作権侵害だと言われた。もしこのまま販売するな

ら著作権侵害で訴訟するとも言われた」と口火を切った。著作権侵害など一切ないと信じ

ていただけに議論は沸騰した。議論はあちこちに飛び、堂々巡りもした。数時間の議論を

して深夜になると皆落ち着きを取り戻し、 「著作権侵害といわれたものをそのまま売るわけ

には行かない。とりあえず、明日の記者会見は取りやめよう」という結論になった。翌3

月9日に予定されていた新製品発表記者会見は急遽取りやめ、後日仕切りなおして実施す

ることにした。面子などにこだわってはいられなかった。4日後の3月13日、改めて新

製品発表記者会見を行い、 「PC-286を問題のないようにしたうえ4月中に発売する」

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と発表した。 会見での記者の質問は製品の性能よりも、 互換性と著作権の問題に集中した。

質問の矢面に立ったのは相澤専務だった。

このエプソンの発表にNECサイドは態度を硬化させた。NECの水野常務は「セイコ

ーエプソンから機器の提供を受け、2日間にわたり調査した結果、当社の知的所有権を侵

害するものと判断。再調査、検討後に発表するように申し入れた。しかし、同社はシロと

発言する一方、問題部分を修正するなど、理解に苦しむ行動が見られる」と批判した。

かくして、 4月7日NECから 「PC-286Model1~4」 の販売差し止め仮処分申請

が提出された。エプソンはそれを受けて、 「PC-286Model1~4」の販売を見合わせ、

著作権の争点となっている“BIOS”と“BASIC”のうちBIOSを訴訟されたも

のとは別系列で開発を進めていた新BIOSに差し替え、問題の残る“BASIC”をは

ずしたPC-286Model0を4月30日に発売した。Model0はMS-DOS(マイクロ

ソフト社のディスク・オペレーション・システム)に対応するソフトを走らせるビジネス

専用機である。ゲームや教育用ソフトで主流のBASICもサポートできる Model1~4

の発売は夏以降というスケジュールに切り替えた。著作権侵害は絶対にしていないという

技術者の言い分を信じ、EPSONブランド確立に執念を燃やす服部一郎社長は広報予算

がないと言う広報部門をオーバールールして、社長命令でPC-286発売当日、朝日新

聞・日本経済新聞などに1ページ全面広告「話題の互換機本日発売」を掲載させた。関係

者は服部社長の強い意思を知って奮い立った。

日本で始めての互換機に訴訟問題が加わったものだから、マスコミの絶好の話題となっ

た。朝日・読売・毎日・日経・産経 など一般紙やNHKテレビ報道にも取り上げられ大騒

ぎとなった。週刊誌にも取り上げられたが、白面の貴公子服部社長の顔写真とふてぶてし

く見える水野常務の顔写真が対比されると、善玉の服部社長、悪役の水野常務のように見

えてしまったのは筆者の偏見であろうか。この一連の報道で、エプソンの知名度は一気に

高まった。後日電通が試算したところ、広告宣伝費換算で20億円の効果だったという。

斉藤博美は営業本部副本部長としてパソコン営業の全責任を負う立場になり、エプソン

販売全部門でPC-286を販売する体制をとらせた。オフィスコ ンピュータ販売部門も

特販部も例外なくPC-286も売れということである。3月から4月にかけて、全国1

0ヶ所でPC-286の発表会を開催したが、予想をはるかに上回る大盛況だった。代理

店の熱気とPC-286に対する市場の期待の大きさを関係者全員が肌で感じた。 「低迷感

のあるパソコン市場を活性化する救世主の登場」である。パーソナルワープロをはるかに

越える2本目の大きな柱が出来るというので営業前線は張り切った。 「ソフトが待ってい

た!国民機」の登場である。 「NEC98用のソフトはNECが投資してつくったものでは

ない。ソフトハウスが自分の意思で、自分の資金で作ったものだから、98用ソフトは国

民的財産だ。それらのソフトをより早く効率的に走らせる互換機こそ国民機ではないか」

14

という理屈である。

しかし、 「関心は高いが動きは今ひとつ」の状態であった。BASICなし、BIOSだ

けの片肺飛行であるからやむをえない面はある。だが、日経パソコンの調査でPC-28

6がアップルのマッキントッシュをおさえて「使ってみたいパソコン」の第1位に選ばれ

たことは営業の一線に大きな希望を与えた。本家NECの98シリーズは第3位、第4位

がNECのラップトップパソコン98LT,第5位が東芝のJ-3100だった。

(写真)PC-286Model0

3.相次ぐ不幸

そんな矢先、誰もが思ってもみなかった衝撃的な事件が起きる。1987年5月26日

夕刻、服部社長が川名ホテルで行なわれていた国際ロータリークラブのゴルフ懇親会の最

中に急死してしまったのだ。享年55歳の若さだった。服部社長急逝の報に接しセイコー

グループの経営陣・関係者はあまりの突然さに声を失った。服部社長はセイコーエプソ ン

の国際化と多角化を強力に推進してきた。プリンタ・パソコン・ワープロなどEPSON

ブランド情報機器完成品の育成には特に力を入れてきた。アメリカで他社の低価格攻勢に

よりエプソンのIBM互換パソコン“EQUITY”が危急存亡のピンチを迎えたとき、

もし必要ならば私財を投入してもかまわないとまで言って、本社からエプソンアメリカへ

の多額の資金援助を即決し、結果としてEQUITYの地歩を確立させたこと、また、N

EC98互換機についてもNECとの間に著作権係争問題が生じたときもまったく動ぜず、

新聞に全面広告を出してNEC に応戦したこと、などは服部社長でなければできない決断

だった。

服部社長の葬儀が済むと、もはや悲嘆にくれているわけにはいかなかった。エプソン販

売は斉藤副本部長を先頭に、日本全国で販売促進活動を展開した。営業の第一線は言うま

でもなく、ハードやソフトのサポート、宣伝・広報等のスタッフ全員が燃え上がり、一丸

となってPC-286の販売に取り組んだ。

一方電子機器事業本部サイドは内藤副本部長が陣頭指揮して新BASICの開発に取り

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組んでいた。札幌のソフトラボに広丘事業所やエー・アイ・ソフトから集められる限りの

精鋭ソフトエンジニアを送り込み、文字通り昼夜兼行で新BASIC開発作業を行なった。

今度は絶対に著作権侵害のクレームがつけられないよう、広丘の仕様作成チームと札幌の

プログラミングチームを完全に隔離し、間違っても接触のないようにし、かつ札幌で作っ

たプログラムは公正役場で証明書を発行してもらった。夏も終わる頃、新ROM BAS

IC完成の目途が立ってきた。

その頃、セイコーグループを再び悲劇が襲う。9月1日セイコーグループの総帥服部謙

太郎会長がすい臓がんのため逝去した。享年68歳。服部一郎社長逝去後わずか3ヶ月余

りのことで、セイコーエプソングループにとって社長・会長の相次ぐ他界はあまりにも大

きな痛手であった。しかし、現実のビジネスは待ったなしである。

PC-286の関係者は弔い合戦のつもりでNECに挑んでいった。

4.サマージャンボリー・イン・蓼科

服部会長の逝去という不幸に直面し、普通の会社ならばサマージャンボリーのようなイ

ベントは自粛または中止ということになるのだろうが、セイコーエプソン・エプソン販売

は違った。9月4日から6日にかけて二泊三日の日程で、エプソン販売とセイコーエプソ

ン営業本部・電子機器事業本部・プリ ンタ事業本部の代表275名が予定通り蓼科高原に

集結した。内需拡大の実をあげるためには主力のプリンタ・電子機器関係者間の生販一体

体制確立が急務と見てとった営業本部長の土橋専務が岡本社長と語らい、セイコーエプソ

ンのトップマネジメントを説き伏せて開催にこぎつけた大イベントである。服部会長の霊

に捧げるためにも、内需拡大をはかり、業績を立て直さなければならない。 「決めたことは

断固やり抜こう」というトップマネジメントの強い意思で予定通り実施された。4日夕方

の懇親パーティには当面の責任者土橋専務・岡本社長のほか、セイコー エプソンから安川

副社長・山村専務・相澤専務も参加するという豪華な顔ぶれになった。

このジャンボリーがきっかけになって、以後ワープロ・パソコン・プリンタなど製品ご

とのミニジャンボリーが適宜開催されるようになり、生販の一体感が高められていった。

また、サマージャンボリーは翌88年と翌々年89年の3年にわたり継続的に開催され、

事業部・販社の一体化に大きな役割を果たした。

5.PC-286シリーズ、攻勢開始

9月10日、待望のPC-286用ROM BASICが発売された。これで片肺のビ

ジネス用 Model0をゲーム・教育用ソフトにも対応できる完全なNEC98互換機にでき

る。

引き続き9月 11 日にはPC-286シリーズ新製品2機種を発表した。競争力のあるコ

ンパクトタイプのPC-286V(STD.¥298,000) 、と3.5 インチフロッピーディス

クドライブ搭載の薄型・廉価なPC-286U(STD.¥248,000)である。さらに 11 月

16

には待望のラップトップパソコンPC-286Lも発表できる見通しが立った。これでR

OM BASICを搭載して両肺がそろったPRO SPEC PC-286(STD.

¥357,000)と合わせて、堂々4機種のラインアップとなる。

新ROM BASIC完成の情報を手にするや、機敏な斉藤副本部長は在庫がたまって

いたPC-286Model0の大胆な価格政策を決断する。新ROM BASICを搭載して

完全なNEC98互換機となったPC-286の在庫をPC-286V・PC-286U

が出てくるまでに処分して身軽にしておこうという作戦である。この作戦は見事に図に当

たり大阪の上新電気がPC-286を3000台一括仕入れする話がまとまった。関西方

面から動き出したPC-286の流れは北上して東京方面に押し寄せてきた 。この動きが

うまくPC-286V・PC-286Uの販売につながり、10月以降エプソンのNEC

98互換機の勢いは日本全国に波及する。11月に販売されたラップトップパソコンPC

-286L(STD-S¥318,000, STD-N¥348,000)は日本で初めて、NEC9801のソ

フトが完全に動くラップトップパソコンだった。本家NECのラップトップPC-98L

TはPC-9801とは互換性がなく、いわゆるNEC98とは別物だった。PC-28

6Lこそユーザーが待望していた商品だった。PC-286Lは発売前から販売店か らの

注文が殺到した。これまでエプソンのNEC98互換機の販売に慎重だった大塚商会もこ

のラップトップに限っては販売してくれることになった。もちろんNECも手をこまねい

ていたわけではない。翌1988年2月NECラップトップパソコン「PC-9801L

V21」 (STD.¥345,000)を発表し、3月末から発売する。

さて、懸案の著作権係争はエプソンの新BASICをNECは徹底的に調査したものと

推測するが、完璧な開発体制で作り上げたエプソンの新BASICはケチのつけようのな

いものだったに違いない。 11月27日セイコーエプソンと日本電気は PC-286Mod

el1~4問題に関し和解し、係争は円満解決した。

(写真 PC-286V)

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6.PC-286シリーズとエプソン販売の躍進

著作権係争問題が片付き、後顧の憂いがまったくなくなった年末・年始の商戦はエプソ

ンの独壇場だった。PC-286シリーズのコマーシャルキャラクターはF1レーサー中

嶋悟氏に依頼した。エプソン販売が中嶋悟氏のスポンサーだった関係もあり、中嶋氏は1

987年から1994年まで9年間にわたり、 エプソンのパソコンと液晶テレビのコマー

シャルキャラクターを勤めた。

PC-286シリーズは週刊ダイヤモンド12月5日号の「特集:今年の超ヒット商品

番付」で1位自動製パン機「ホームベーカリー」 、2位辛口ビール「スーパードライ」 、3

位洗剤「アタック」 、4位大型カラーテレビ「ナショナルAシリーズ」に続いて総合第5位

にランクされた。事務機部門では堂々の第1位であった。東京リサーチ(株)の11月度

PC小売店頭マーケット・シェア調査によるとPC-286シリーズは16ビットパソコ

ン販売数量で20.1%のシェアを獲得した。 10月度の2倍のシェアである。ただし、

12月はあまりの需要急増に供給が追いつかず品不足をきたしてしまった。PC-286

シリーズに引っ張られてそれまで元気のなかったパーソナルワープロも12月は息を吹き

返した。

プリンタ事業本部は主柱事業の面子にかけて内需拡大に力を入れていた。

実は、プリンタ事業本部が日本市場に本気で取り組むことになったきっかけにはあるエ

ピソードがある。PC-286発売当初、エプソンのインパクトドットプリンタの解像度

は180DPI(1インチ四方に180ドット)なのに対し、NECのプリンタは16 0

DPI(1インチ四方に160ドット)であった。プリンタの解像度としては当然エプソ

ンが上である。 しかし、 そのことがあだになって、 NECのPC-9801パソコンで 「真

円」を描くとNECのプリンタでは真円で印刷されるものが、エプソンのプリンタでは楕

円で印刷されてしまうという問題があった。設計部門レベルでプリンタ事業本部と話し合

っても埒が明かないので、電子機器事業本部はやむなくブラザー工業から160DPIの

ドットプリンタをOEM調達し、PC-286専用プリンタとして販売した。このことが

プリンタ事業本部との間に軋轢 を生んだ。一時はかなり険悪な状況にまでなった。結果的

にはプリンタ事業本部が本気になって日本市場に取り組むようになり、ソフトウェアで解

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決策を見出して「雤降って地固まる」ことになったのであるが、IBU( Independent

Business Unit )思想のもと完全独立事業部制への移行過程でそれぞれの事業部が思い通

りに力いっぱい自らの事業に全力投球していた時代だった。

このようなことがあってプリンタに関しては、主力のインパクトドットプリンタは新製

品VP-800/1000に切り替わっていたし、前年から販売さ れていたインクジェッ

トプリンタHG-2500,カラービデオプリンタCV-3000,入力機器のカラーイ

メージスキャナGT-3000そして高性能レーザープリンタLP-5000も9月から

戦列に加わって製品ラインアップは格段に強化されていた。

プリンタと電子機器の両輪で引っ張るエプソンの内需拡大策は87年度の年末商戦で成

長軌道に乗った。

PC-286シリーズは予想をはるかに上回る需要のため、年が明けると品不足は一層

顕著になった。なおかつ急激な増産のため生産に無理が生じ品質も不安定になった。PC

-286Vも足りなかったが、とくに品不足が深刻だったのは、PC-286Lの「白液

晶バージョン」だった。この白液晶ディスプレイは当時セイコーエプソン表示体事業部が

開発した新製品で、他社の「青地に黒」の文字表示に比較すると圧倒的に視認性が高かっ

た。 ディスプレイを見ただけで商品価値の差は歴然としていた。 表示体事業部でも、 まだ、

量産立ち上げしたばかりで思うように数が上がらず、苦戦していた。そのなけなしの白液

晶ディスプレイを電子機器事業本部は日本IBMと奪い合いをしていた。日本IBMは必

死で、担当部長がセイコーエプソン表示体事業部に日参し ていたし、役員レベルではセイ

コーエプソン担当役員へも頻繁に協力要請が行われていた。電子機器事業本部・表示体事

業部の両事業部長同士の話し合いでは、埒が明かないことに業を煮やしたエプソン販売岡

本社長はセイコーエプソン中村社長に、白液晶ディスプレイを当分の間PC-286L用

優先にまわして欲しい旨直訴に及んだ。中村社長はその話を聞き、営業第一線の声も再確

認したうえで、担当役員・事業部長を呼んで、 「社内用最優先」を言い渡した。まもなくP

C-286Lの供給も改善に向かい、エプソン販売営業部隊の士気はいやがおうにも高ま

った。

1987年度はエプソン販売にとって年度初めの予想を大きく上回る好成績となった。

売上高は682億円(対前年度比145%) 、うちエプソンブランド完成品の売上高は36

0億円(対前年比160%)となり、初めて総売り上げの50%を上回る52.8%を達

成した。

エプソン販売の1987年度完成品売上は プリンタ・パソコン・パーソナルワープロが

3本柱であった。

また、年度末3月の3年間の売上推移をみると、1987年度つまり88年3月の年度

末商戦でPC(パソコン)とTP(ターミナルプリンタ)がいかに売上を伸ばした か一目

瞭然である。PCは16億円(前年同月実績ゼロ)、TPは前年同月の2倍強12億500

19

0万円の売上だった。残念ながらパーソナルワープロは大きく落ち込んだ。

OEM営業もこれまで事業部で直接取り扱っていたミニプリンタや液晶表示体などの大

手客先との取引がエプソン販売に移管され86年度の245億円から87年度322億円

(対前年度133%)へと大きく売上を伸ばした。

この好業績と積極的な販売戦略の展開による内需拡大への大きな貢献が認められて、エ

プソン販売は翌年(1988年)制定されたセイコーエプソン社長賞(第1回 )を受賞し

た。

7.飛躍の年、1988年度 ― PC-286シリーズ店頭販売シェア20%超、エ

プソン販売売上高1000億円を達成

翌1988年度、セイコーエプソンはその経営方針4に「国内市場の創造と開拓を徹底

的に進める」を掲げた。エプソン販売にとって大いなる飛躍の年になる。

(1)PC-286シリーズ大躍進

1988年度エプソン販売は前年度の売上実績682億円を踏まえて、売上目標830

億円を掲げてスタートした。

品不足が続いたPC-286シリーズの供給も1988年度が始まる4月ごろからはよ

うやく軌道に乗り出し、品不足のためベストセラーランキング入りできなかったPC-2

86が4月の店頭小売ランキング第8位に顔を出した。ラップトップ機では3月に発売さ

れたNECのPC-9801LVをおさえて第1位だった。ラップトップ機はこの頃「ラ

ップトップ時代の幕開け」を迎えた感があり、東芝・富士通・沖・日立・三菱など各社から

新製品が発売され始めていた。

PC-286の躍進はエプソン販売の「ビジネスショウ」への取組みを大きく変化させ

た。1988年5月18日から21日にかけて開催された第66回ビジネスショウでは5

30㎡の大ブースを確保し、 “EPSON VALUE UP” というスローガンを強力

にアッピールした。 「EPSONが強力なCPUを持ち、ついに本格派の総合情報機器メー

カーとして出帆した」 、主軸は「ラップトップはEPSON」と「プリンタのトップメーカ

ー」であり、さらに「ワープロ・テレビ等民生品もEPSON」だった。

夏の商戦に入る6月、エプソン販売は“Touch & Heart ”の販促キャンペーンを代理店と

ともに展開した。6月1日・2日の2日間だけでPC-286シリーズを2200台販売

し、量販店・大学生協を主体に大いに盛 り上がっていた。結論を先に言えば、この年の夏

の商戦は予想をはるかに上回る戦果 を上げた。とくに6月はEPSONブランド完成品の

売上高が58億円(うちPC-286シリーズ26億円)に達した。これは前年12月の

46億円を26%上回る史上最高の記録となった。ただし、1988年は深刻な半導体不

足に悩まされ、NECもエプソンも供給不足に悩まされた。7月はPC-286Lが供給

20

不足になり、PC-286シリーズの売上は6月を下回る20億円にとどまり、不本意な

結果となった。

PC-286シリーズの店頭販売シェアは順調に伸び、 88年7月からは20%を超える

までに成長した。1987年5月から1988年10月まで、PC-286発売以来のN

EC・EPSON・その他の16ビットパソコンシェアの推移は下表のとおりである。

年・月 NEC EPSON その他

1987年5月 94.3% 1.0% 4.7%

6月 91.9 1.3 6.8

7月 91.3 1.7 7.0

8月 92.2 2.1 5.7

9月 86.9 4.3 8.8

10月 84.8 9.9 5.3

11月 73.7 20.1 6.2

12月 76.0 18.1 5.9

1988年1月 79.5 14.4 6.1

2月 78.4 16.0 5.6

3月 80.6 12.4 7.0

4月 79.5 14.4 6.1

5月 74.4 18.6 7.0

6月 74.9 19.3 5.8

7月 72.1 21.9 6.0

8月 73.9 21.2 4.9

9月 71.6 22.5 5.9

10月 69.3 24.8 5.9

(2)NECとの対決 ― 第2ラウンド開始

9月に入るとエプソン・NEC両社から新製品が発表される。発売後1年半にしてよう

やくNECに続く第2位のポジションを確固として築いたエプソンにとって第2ラウンド

の開始である。エプソンが1週間先行してハイスペックのPC-286X(80286・

16MHZ搭載)とPC-286VEシリーズを発表すると、NECは9月20日対抗 機

種PC-9801RX2/RX4を発表した。仕様はほぼ同じで、価格はNECのほうが

10万円ほど高い設定である。

21

インテルの32ビットCPU新製品80386の搭載に関してはNECが先行した。

1988年7月、NECはインテル80386DX16MHZを搭載したPC-980

1RA2/5を発表・発売した。NECとしては思い切った低価格でFDDバージョンの

RA2が¥498,000、40MBHDD搭載のRA5が¥736,000だった。エ

プソンはそれに遅れること3ヶ月、10月中旪になって同じ80386でもスピードがワ

ンランク上の80386DX20MHZを搭載したPC-386を発表したが実際の発売

予定は翌1989年1月下旪とNECよりも6ヶ月遅れることになる。価格も¥598,

000と性能で上回るとは言うものの割高感があった。

ラップトップパソコンでも32ビット対応はNECが先行した。11月中旪からNEC

は80386SX16MHZとプラズマディスプレイを搭載したラップトップパソコンP

C-9801LS2/5を発売した。エプソンはラップトップでも32ビット対応はNE

Cの後塵を拝することになった。

V30(インテル8086互換 )ベースのNEC PC-9801シリーズに対し、8

0286ベースの98互換機で挑んだエプソンとしては、80386に遅れをとったこと

は、 「先進性のイメージづくり」の面で問題があり、後々禍根を残すことになる。だが、そ

の時点では80286はインテル以外にも互換CPUを供給する半導体メーカーが数社あ

り、16MHZ・20MHZなど周波数特性の高い80286CPUをパソコンに搭載す

ると、インテルの80386を搭載するよりも高い性能をはるかに安く引き出すことがで

きた。エプソンとしては互換CPUのない80386(インテルは 80386は一切他社

にライセンシングしない方針に転換した)よりも選択肢の多い80286のほうが当分有

利であると判断していた。

80386搭載の新製品では遅れをとったが、エプソンは年末商戦を新製品PC-28

6LEを11月中旪から発売することで乗り切ることになった。PC-286LEはそれ

まで白黒2階調しか表示できなかった白液晶をカラーソフトに対応できるように白黒8階

調の白液晶に改善したうえ、20MBと40MBのハードディスク搭載モデルも用意して、

競争力を大幅に強化していた。

年末商戦向けの新製品発表が終わった段 階で、セイコーエプソン電子機器事業本部では

人事異動があり、11月21日付けで事業本部長が木村登志男から中村淑明に交代した。

実商戦をPC-286L・LEとデスクトップ機PC-286XとPC-286VEで

乗り切ることにはなんの不安もなかった。広告宣伝では山手線・横浜線で「トレインジャ

ック」という車両内の吊り広告をすべてEPSON商品一色で染めるという奇抜な方法も

とられた。

現実にエプソンの年末商戦は予想をはるかに上回る盛り上がりをみせた。

年末商戦はPC-286シリーズを主軸に、B4対応の本格的日本語ペー ジプリンタL

P-7000やサーマルプリンタAP-800,AP-550,インクジェットプリンタ

22

HG-3000などを加え大幅にラインアップの強化されたプリンタやスキャナ、ワープ

ロ、テレビ等豊富な商品群で売上を伸ばした。12月の販売数量はパソコンが1万600

0台、プリンタが2万3000台、ワープロが1万2000台という年度初めには予想も

できなかった戦果だった。

年末商戦を終えた時点で、3月末で締める1988年度の売上は年度初めに立てた売上

目標830億円をはるかに越える1、000億円が視界に入ってきていた。

年が明けて1月に入ると待望のPC-386が発売されるとともに、2月には初の80

286系ラップトップで、2FDD搭載によりデスクトップPCと同等の高速処理、拡張

性を実現したPC-286LS、そして80286/16MHZのCPUを搭載し、16ビ

ット機でありながら、32ビット機と同等以上の高速処理が可能なデスクトップ機PC-

286VSの2機種が発表され、春商戦に向けてはずみがついた。

また、4月以降消費税の導入が決まり、2月・3月、とくに3月には大きな駆け込み需

要が発生した。88年12月は104億円を売り上げ、エプ ソン販売として、初めて月間

売上100億円を突破したが、89年3月はじつに142億円の売上を達成した。極論す

れば、モノさえあればなんでも売れるという状況だった。

結果として、 1988年度のエプソン販売の売上高は、 1, 037億円 (対前年比52%

増) 、内エプソンブランド完成品635億円(対前年比77%増、構成比61.2%) 、O

EMデバイス402億円(対前年比25%増、構成比38.8%)そして経常利益は23

億円(前年度の約10倍)というかつてない高利益を上げた。かつパソコン・プリンタの

2枚カンバンで内需拡大の実をあ げ、セイコーエプソングループの構造転換に貢献した。

この功績が評価されて、エプソン販売は翌1989年の第2回セイコーエプソン社長賞を

連続受賞することになる。

(写真 PC-286LS)

PC-286の成功はエプソン販売の営業スタイルを大きく変容させた。創業期の主力

商品「オフコン」は説明し、デモし、サポートして1台1台営業とインストラクターが一

体となって売り込む商品であった。営業マンには財務会計や医療事務の専門知識と創意工

23

夫の努力と粘り、対人折衝能力などが要求さ れた。特販部の扱ったハンドヘルドコンピュ

ータもソフト開発やオプション調達が必要で、クロージングまで時間とエネルギーが必要

な営業だった。ところがPC-286シリーズはNECのPC-9801シリーズという

明確な競争相手がいて、 かつとくに説明を要しない手離れの良い商品だった。 いわゆる 「箱

売り」商品の誕生である。パーソナルワープロもスタンドアローン型の手離れの良い商品

だが、競合企業が10数社、機種数でいえば数10機種もの競争商品があるので、店頭で

目立つのは、大変なことである。店頭販売支援者を出さなければ、売るのが大 変だった。

その意味でエプソンワードンバンクはまだ営業マンの売る努力を要する商品だったが、P

C-286VやPC-286Lは飛ぶように売れた。そうなると営業マンの仕事は販売店

からの受注と納期調整、場合によっては販売店向けの数量アロケーション(割当)という

ことになる。

たくましい営業マンを育てたオフコンやハンドヘルドコンピュータとは異質の営業の出

現となった。

第4章 さらなる前進をめざした1989年度、しかし、好事魔多し

1.大いなる野望 ― 2000億円企業への足がかりの年に

1989年度は前年の好業績を背景に、セイコーエプソン は経営方針・重点施策項目の

一つとして 「明確に急拡大する国内市場の創造と開発をさらに積極的に進める」 を掲げた。

エプソン販売岡本社長はそれを受けて、1989年度売上高予算1220億円、チャレン

ジ目標として1290億円を設定した。これは対前年度比で約25%アップであるが、2

5%アップを3年続けると2倍になる、つまり1991年度には2000億円企業に成長

しているという意欲的なチャレンジ目標である。その前提としては1988年度にみたよ

うな情報化投資は高度情報化社会への動きの中で今後も続くと いうこと、日本経済は引き

続き旺盛な個人消費と設備投資を両輪とする内需主導型の好況が持続するということ、そ

してエプソン販売がマーケットを確実にとらえて、それを事業部門にフィードバックする

ことにより常に強力な商品を手にして戦っていけるということである。

1988年度の実績は対前年度比約52%アップ、対計画比でも約37%アップである

から対前年比25%アップという目標はチャレンジ値として決して無謀とは思えなかった。

とくに完成品だけを取り上げれば、対前年比77%アップである。しかし、これも商品別

にみると計画を達成したのはパソコンとプリンタだけで、その他の商品は計画未達。89

年度は商品別・拠点別に具体的な戦略・計画を練り上げて確実に目標を達成することが必

須条件である。また、新分野・新チャネルの開拓やパソコンのビジネス分野への積極的な

展開も確実に実行されなければならない。

エプソン販売のもう一つの大きな課題は急速な成長にともなう人材の育成だった。88

24

年4月に新卒94名、その後1年間の中途採用が110名、そして89年4月に新卒13

1名が入社し、89年4月時点で900名の陣容になっている。900名のうち約40%

が経験1年以下という若い組織である。教育への積極的な投資、人と組織の活性化が強く

求められていた。後日談になるが、90年4月の新卒採用はさらに増えて、166名だっ

た。

また、企業体質の強化という観点からサービス体制(メインテナンスサービスおよびシ

ステムサポート)の一層の強化、内部管理体制の強化、そして総合情報システムの構築が

課題として大きく取り上げられた。

2.攻めの商品開発・市場導入

1989年度も一層の内需拡大を目指して、パソコン・プリンタ・オフコン・ハンドヘ

ルドコンピュータ・民生機器・OEMデバイス等 すべての分野で意欲的な新製品投入が続

いた。その販促活動・広告宣伝・営業活動は前年以上に力が入った。

(1)パソコン

完成品売上の50%を占めるようになっていた、パソコンの商品投入は夏商戦直前まで

順調だった。

6 月 7 日世界初のノートパソコン “EPSON PC-286 Note Execut

iveを発表した。ただし、発売は 9 月中旪の予定だった。このPC-286 Note

Executiveは外部記憶装置としてICカードを 2 スロット採用し、厚さ35mm、

重さ2.2kg、A4ファイルサイズでありながら、NEC の PC-9801 シリーズとの完全互

換を実現させた携帯型ノートパソコンだった。エプソンの高密度実装技術・液晶技術・

CMOS-LSI 技術・省エネ技術など長年培われた高度な技術が駆使されていた。世界一薄型

のパソコンを実現させた決め手は反射型FTN 液晶表示体と超薄型ビデオ回路モジュールの

採用だった。また、ソフトに関しても総合ソフトウェア「エプソンMEMO」および日本語

MS-DOS を内部 ROM に標準搭載していた。だから日本語ワープロ・表計算が即座にでき

たし、通信機能も搭載されていた。ただし価格は消費税別で¥458,0 00とやや高め

だった。

発表と同時に PC-286 Note Executive は世界初の超薄型の NEC98完全互換ノート

パソコンとして業界の話題をさらった。

25

(写真 PC-286NOTE Executive )

その 1 週間後の 6 月 14 日、 エプソンはラップトップパソコンPC-286LS の後継機として

ティント表示モード(白黒 8 階調表示にとどまらず、画面の色調を変化させることができ

る)液晶を搭載し、視認性を向上させたPC-286LST(¥518,000)そしてデスクト

ップ機の PC-286VF(¥298,000)の2機種を発表した。

この時点で、エプソン販売の夏商戦パソコンラインアップは万全に見えたし、誰もがそ

の先にとんでもない落とし穴があるとは夢にも思わなかった。

悪夢の始まりは 6 月 26 日だった。東芝がノートパソコン「東芝 ダイナブック

『J-3100SS』 を発表した。IBM PC 互換機に東芝独自の日本語表示機能を取り付けたパ

ソコンだったが、驚異的だったのはその価格だった。なんと¥198,000、その当時

では常識を覆す低価格だった。NEC98 かその互換機でなければ売れなかった日本市場に、

東芝は驚異の低価格でノートパソコンという新分野に攻勢をかけてきたのだ。東芝ダイナ

ブックは 7 月末から発売された。ノートパソコンの発表はエプソンが世界初だったが、発

売は東芝が世界初の栄誉を担った。

東芝の攻勢に NEC は迅速に対応した。 東芝に遅れること4 ヶ月。10 月 19 日、NEC 9

8NOTE“PC-9801N”を発表、11 月末から出荷を開始した。価格は¥248,000、

重量は3㎏を切っていた。フロッピーは1ドライブだったが、NEC パワーは強大でソフト

メーカーはすぐ98NOTE 対応版を発売した。

秋から年末の商戦では東芝・ NEC のノートパソコン攻勢の前にエプソンの Note

Executive は完全に失速した。

エプソンがフロッピー搭載のノートパソコン PC-286NOTE・F の発表にこぎつけたの

は 1990 年 2 月 5 日、 出荷は2 月下旪だった。 価格は¥198, 000と安かったが、NEC

の後追いになり、それをしのぐ特徴に乏しかった。互換機メーカーが後手に回っては勝負

にならない。

26

ノートパソコンの失速・立ち遅れはあったが、まだ主流だったラップトップパソコンで

なんとか挽回しようと販売推進・宣伝・システムサポートのスタッフは10 月に全国 7 ヶ所

(東京・大阪・名古屋・札幌・仙台・広島・福岡)で「EPSON・LAPTOP・セミナー」を

開催した。ノートで分の悪い年末商戦はラップトップで勝負だった。しかし、善戦むなし

く流通在庫が増加し、値崩れを防げなかった。

もう一つ、悪いときには悪いことが重なるものである。エプソンパソコン大躍進の原動

力だったラップトップパソコン PC-286L/LE/LF の充電ユニットに欠陥が見つかった。 経時

変化・使用方法によっては充電ユニットの抵抗およびその周辺 が過熱、異臭を発し、場合

によっては発煙現象を起こすことが判明したのだ。その当時はまだ安全意識が今日ほど強

くなく、業界慣行としては不具合が発生し、苦情を持ち込まれたときに個別に対応するの

が常識的な措置だった。しかし、セイコーエプソンのトップマネジメントは一時の悪評は

覚悟の上で、全数リコールの大英断を下した。ラップトップパソコンPC-286 シリーズは

累計 10 万台近く販売された、当時としては記録的な大ヒット商品である。全数リコールと

なればその費用も 10 億円を超える。しかし、安全第一、金には変えられないというトップ

マネジメントの強い倫理観から 1 月 24 日全数リコールをマスコミに発表するとともに、 2

6日には告知広告を新聞に掲載、該当機種の部品交換を実施した。エプソン販売・セイコ

ーエプソンの関係者全員総がかりの大プロジェクト「F-35」として語り継がれている事

件であるが、グループの前向きで積極的な対応はやがて社会的に高く評価され、ユーザー

や代理店の信頼感を高めた。

1989 年度夏まで順調に来たパソコン事業であるが、下半期はノートパソコンの敗北と市

場の低価格化が主因となって売上は予算を大きく下回った。1989年度パソコン の売上

は353億円だった。98互換機市場参入 3 年目にして味わうはじめての挫折であった。

(2)プリンタ

プリンタはドットインパクトプリンタ分野で NEC に握られていたファームウェアの標

準を、苦労して ESC/P で取り戻した。インパクトドットプリンタのペーパーハンドリング

は大きく進化し、単票と連続用紙両方を扱えるプリンタは常識になっていたし、カラーイ

ンパクトドットプリンタも登場していた。

1989 年の主な新製品を列挙すると、下記のとおりである。

*3 月 カラー24ドットシリアルインパクト漢字プリンタVP-2000

同上 VP-900

*6 月 単票、連続用紙ワンタッチ切り替え可能低価格 24 ピン漢字プリンタ VP-550

*11 月 普及価格プリンタ 6 機種のラインアップをいっせいに切り替えた。

27

シリアルインパクトプリンタ VP-2050

VP-950

VP-1350

VP-1500

サーマルプリンタ AP-850

AP-550EX

この一斉切り替えが年末商戦で威力を発揮する。

ページプリンタもファームの標準をキャノンの LIPS に先行を許したが、1989 年 3 月に

ページプリンタ用コントロール体系 ESC/PAGE を完成し、 「日本語対応ページプリンタ

LP-7000 ESC/PAGE 対応機」を発売し、追撃体制にはいった。

インクジェットプリンタでは 2 月に HG-4800,7 月に IBM PS/55シリーズ対応の高速

インクジェットプリンタ BS-3000 そして 8 月に同 BS-800 を発売している。

1989 年度プリンタの売上は日本市場で初めて 200 億円を突破し、208 億円を記録した。

(3)民生機器

民生機器は 1984 年に発売した世界初の液晶ポケットカラーテレビ 「テレビアンET-101」

(84 年日経年間優秀賞製品賞「日経産業新聞賞」受賞」を起源とする。液晶テレビは85 年

以降も毎年新製品が発売され、86 年には縦型ハンディ液晶カラーテレビ ET-303 や 88 年に

はキューブ型液晶カラーテレビ ET-708 など趣を変えた液晶テレビも発売されてその存在

感を高めてきた。 また、1988 年にはハンディワープロ 「ワードバンクPEN」 が発売された。

情報機器に偏りすぎたエプソン販売完成品のバランスを是正するためには、民生機器営

業を強化するという方針が出され、1988 年 10 月 21 日付で民生機器営業課が誕生した。 そ

の 2 ヶ月後の 12 月 21 日、民生機器営業担当として、河西保美がセイコーエプソンから営

業本部長付として出向してくる。 河西保美は翌1989 年 6 月取締役に就任し、 拡大をめざす

民生機器営業の指揮をとる。

この年、民生機器で話題をさらったのはハンディカラオケの「まめから」である。カセ

ットテープとマイクを一体化したアイデア商品であるが、営業とマーケティングの妙でヒ

ット商品になった。 「まめから」の発売当初、カラオケをさんざん売ってきた量販店では相

28

手にされないので、カラオケを扱ったことのない店に飛び込み、素直に「それ、面白いじ

ゃない」と関心を示して、乗ってきてくれる店に売ってもらった。販売推進のスタッフは

花見や宴会など人の集まる場所で実演してみせ、 「口コミ」による普及をはかった。広告宣

伝スタッフは、金のかかる広告よりも「ただ」で記事を掲載してくれるパブリシティと、

金のあまりかからないイベントを軸に市場への浸透をはかった。やがて興味をもってくれ

た店で「まめから」が売れはじめると、大手量販店も取り扱いを開始してくれた。

この「まめから」のヒットはマーケティング、すなわち営業と販売推進がつくり出した

もので、エプソン販売民生機器営業の力を示したものだった。

民生機器営業の取扱商品は液晶テレビ、ハンディワープロ、まめからのほかビデオプロ

ジェクターにも拡がっていたが、1989年度は液晶テレビ ・まめから以外は振るわなか

った。 1989年度の民生機器売上は31億円。 事業としての独り立ちはこれからだった。

(4)オフィスコンピュータ

エプソン電子機器事業の原点オフィスコンピュータについては、エプソン販売創業以来

販売体制を強化し、積極的に新製品の投入を行なったが、事業規模の拡大は難しかった。

1985 年 4 月の電子機器事業再編成により、オフィスコンピュータは広丘事業所の設計・

技術部門を含めた生販一体の事業部門として事業再建に努力し、1989 年には黒字化を達成

し、再び生販分離の体制に戻った。オフィス コンピュータ営業は営業本部傘下のビジネス

コンピュータ統括部が担っていた。

1989 年度も KX-2020,KX-5080,KX-5150,VX-2040 などの新製品が投入された。

オフィスコンピュータは積極的な新製品導入にもかかわらず、 売上規模は年間30 億円前

後で推移したが、システム営業の代表格としてエプソン販売のシステムサポート・サービ

ス体制確立の中核的役割を果たし、また営業マンの営業頭脳と足腰両方を鍛え上げる商品

ジャンルとして多大の貢献をした。

(5)デバイス

1988年度から OEM 営業はデバイス営業に名称変更されていた。 ミニプリンタは成熟

段階に達し、伸びていたのはマグネット、水晶デバイス、モジュールなどのデバイス・コ

ンポーネントだった。OEM/デバイス・コンポーネントは一時的な例外を除いて、1983 年

のエプソン販売創業以来毎年安定的・確実に売上・利益に貢献してきた。

1989 年度のエプソン販売の売上高は 1177 億円、計画の 1220 億円に対して、3.5%の未

達、チャレンジ目標の 1290 億円に対しては 8.8%の未達であった。対前年比 14%増ではあ

るが、年度初めに目論んだ 25%増には達しなかった。デバイス営業は予算を達成したが、

完成品はプリンタが史上最高の売上を達成したにもかかわらず、前述のとおり下期のパソ

コン売上がノートパソコン登場にともなう市場変化の影響を受けて急激に落ち込んだのが

29

原因で予算未達となった。

遺憾ながら、年度初めに目論んだ1991年度売上2000億円達成という目標は先送

りせざるをえない情勢となってしまった。

以上

(参考文献)

* 南条太郎『セイコーエプソン成長の謎にせまる(上・中・下) 』

* セイコーエプソン(株) 『年表で読むセイコーエプソン』

* 「日本のパソコン年表」Web 公開資料

* エプソン販売社内報『エソール』(1983年10月号~1990年3月号)

* エプソン販売「営業報告書」 (1985年度~1989年度)

木村登志男(きむら・としお)

法政大学ビジネススクール

イノベーション ・ マネジメント研究科教授

















The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY

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EPSON PC-286:兼容机争议与产品调整

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セイコーエプソン・国内市場エプソンブランド完成品躍進の端緒
AUTHOR
木村登志男
PUBLISHER
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
SOURCE URL
https://riim.ws.hosei.ac.jp/wp-content/uploads/2014/10/WPNo.82_kimura.pdf

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